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統制のための音楽/自由な表現のツールとしての音楽

ジャズは子どもには早すぎるのかどうかについて、前回の続きです。

そもそも、日本で一般的に考えられている「子どもにふさわしい音楽」は、音楽そのものの表現力に制約をかけているように感じます。楽譜やCDなどの音源を「そっくりそのまま」が最高の表現力だといったような一般的な音楽的価値観が、子どもの音楽の場面でも再生産されているように感じることがあります。そうなると、音楽プログラムなのに、音楽自体はCDをラジカセで鳴らせばよいということになりかねません。おとなの音楽的表現がない音楽プログラムで、子どもの音楽表現が育つわけがないように思うのです。 先生の音楽表現が欠如したまま、「さあ、弾むように歌いましょう」と先生が子どもたちに指示する、というようなことが学校の音楽の授業の光景として思い出されます。「弾むような気持になりましょう」と言葉で指示して、どれだけの子どもが心の底から弾むような気持になるのでしょう。先生が弾むような音楽表現をしたら、そんな言葉に頼らないでも子どもたちは弾むように歌うのではないでしょうか。ま、これは理想論ですが。理念を述べているということでお許しください。

音楽は人と人との相互作用を媒介するツールです。だから音楽は文化なのです。だから、現代社会の価値観に基づけば、人間が多様であるのと同じだけ、音楽も多様であるのが当然です。別の面から言えば、人間の多様性に即して、音楽は多様な表現を最大限に可能にするツールであったほうがよいと言うこともできると思います。社会の構成員に画一性が求められた時代には、きっと音楽も画一的な表現しかできないように統制されていたのでしょう。現代はそのような時代ではありません。

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