芸術家、そして学者としての純粋な生き方について
娘と妻が夜な夜な観ていた「ファン・ジニ」という韓国時代劇ドラマの最終回を垣間見た。その中に、なかなか共感を覚える深いシーンがあった。
** 踊りの神髄を追究しようとして不遇に陥っていた妓生(主人公の踊り子)。妓生仲間から追われ、市場の片隅で人々に踊りを見せて、小銭を稼ごうとする。しかし、人々から一向に評価されないまま、疲労に倒れる。それを見ていた村のはずれの庵に住む学者が、主人公の妓生を助けたくだり。 学者「あのような行為はやめなさい。お前は奢っている」 妓生「私のどこが奢っているのですか?私たちの世界のことを知らないのに、そのようなことを言うあなたこそ奢っている」 学者「自分の過ちに気づかないのだから、言っても仕方ない」 妓生「私はどこに行けば、本当の踊り子として生きられるのでしょうか。学者なんだったら知っているでしょう?」 学者「人を教え導くのが学者ではない。問いを立て学ぶのが学者なのだ」 そして、学者が妓生に、乾燥させた菊の花を茶に浮かべて、花が鮮やかに蘇る様子を見せる。 学者「この花こそ、私が学者とは何かということに悩んでいたときに、教えを乞うた私の師だ」 この学者とのやりとりで、主人公の妓生は蘇る。翌朝、妓生は学者に置手紙を残す。 「ようやく分かりました。人に踊りを見せようとしていたことが、私の奢りでした。」 そして妓生は、民衆生活の中に入っていき、生きるための仕事に勤しみながら、人々と共に踊る生き方に歩みだす。 ** たまにチラ見しただけなので、ドラマの全体像はよくわからなかったが、たぶんこのドラマの作者は多かれ少なかれ芸の道に悩んだ経験がある人なのだろう。 さらに、学問とは何かということについても、大事なポイントをサラッと押さえている。そして、芸と学問の共通点を浮かび上がらせる。 ドラマの作者がこの妓生に与えた気づきの過程は、まさに私自身の気づきの過程に重なる。 学者も芸術家も、他者に何かを与えて評価されるということが本義ではない。自らが道を極める努力を重ねることこそが、生きる道なのだ。そうすれば、学者や芸術家の行為が、自ずと他者の幸福を呼び起こす。そういうものなのだ。 しかし、この気づきを実践しようとすると、なかなか容易ではない。 大学に雇われ、給料をもらって生きる研究者は、他者や社会に役に立つことを第一義的に求められる。自分が他者や社会に役立つ人間だと勘違いをし、そのことの奢りに気づかない。「先生」と呼ばれることに疑問さえもたなくなり、人の上に立つことが自分の役割であるかのように錯覚するようになる。そのような構造が研究者を縛っているのだ。 他者からの評価によって身を立てなければならない芸術家も同じだ。「売れる」ことが一流の芸術家の証だと勘違いする仕組みがある。芸に自信をもつほど、「売れ」なければ、自分を評価しない世間のレベルが低いのだと不満を抱き、「売れ」れば、自分の芸の価値を確信するようになる。どちらの場合もそれが奢りだと気づかなくなっていく。 他者からの評価が得られるかどうかということに過敏になることは、学者や芸術家の死を意味しているとさえ言えるかもしれない。 他者の目、耳、評価は、自分の価値を決める尺度ではなく、自分を高めてくれる刺激であり、素材なのだ。 だから、私以外の学者や芸術家の優秀さは、妬みや嫉みの対象ではなく、称賛の対象であり、自分を高めてくれる刺激なのだ。 こういう純粋さを保つことは難しい。純粋にさせてはくれない社会構造があるからだ。 しかし、だからこそ、学者として芸術家として、己を純粋に保っておきたいと切望するのだ。