音楽をめぐる文化的価値と経済的価値の対立
前回は、ミュージシャンたるもの著作権は意識しなければいけないもので、私のようなド素人でも結構なプレッシャーになっているという話をしました。
著作権というのは、考えてみれば面倒くさい権利です。
作者や演者が限られた人であった時代、あるいは作者や演者というのは限られた特別な人たちのことだという認識が広くあった時代には、面倒くさい話ではなかったと思います。
誰でもが作者でも演者でもありえて、公開や発表の場や機会がすべての人にとって身近になったことが、著作権をややこしいものにしています。
***
JASRAC(日本音楽著作権協会)は、音楽教室で指導教授のために使う音楽に対する著作権料徴収を断行しようとしているのは、有名な話です。
これに対して音楽教室や世論は、すでに音源や楽譜を入手するときに著作権を支払っているので、著作権の二重取りになるのではないか、あるいは、音楽を学ぶ人は聴衆ではないからレッスンの場には著作権は及ばないのではないか、など、いろいろな反論をしています。
私も、JASRACの方針はやりすぎではないか、と思っています。
以前には、京都大学総長の入学式の式辞にボブ・デュランの曲の一節を引用したとして、JASRACが京都大学から著作権を徴収しようとしたということもありました。この件は、著作権法に則った徴収は無理だと断念して、利用料規程を示しただけにとどまったようです。
前回のブログでも触れたように、JASRACの利用料規程には、お金を取らない場合についての料金表も提示されていて、著作権法には基づかないけれども著作権を徴収するという姿勢が見て取れます。
さまざまなグレーゾーンのケースへの対応でしょうが、そこまでしたら、著作権は、音楽文化の発展ではなく、逆に音楽文化の停滞を生み出すことになるのではないか、と不安になってしまいます。
***
著作権の拡大解釈は、音楽文化の停滞を生むのではないかという懸念をよそに、、先日、音楽教室からの著作権徴収を文化庁が追認したという記事が新聞に出ていました。 流れは、著作権徴収の対象を拡大していく方向にあるようです。
なぜそんな判断になるのか、音楽文化の振興という観点から考えると、とても不思議な感じがします。著作権が一般の人々の音楽へのかかわりを委縮させることになったら、著作権法の精神に反することになるのではないか、と思うからです。
***
1980年代半ば、「国際化」ということが盛んに言われ、政策課題となっていた時期がありました。 同時にそのころ、「生涯学習」という概念が脚光を浴びました。当時中曽根康弘首相の諮問機関として立ち上がった臨時教育審議会、それに影響を与えた財界の発言を読むと、生涯学習の経済効果に対して期待がかけられていたことが分かります。
1980年代の日本は、外国から過多な貿易黒字の解消を迫られていて、「内需拡大」のための政策が検討されていました。輸出よりも日本国内でお金を循環させていくためにはどうしたらいいか、という議論がなされていたわけです。当時すでに、高度経済成長期のように家電や自動車を作ったらどんどん売れるという時代ではなくなっていました。重厚長大から軽薄短小へと言われ、商品の生産には付加価値が重要だとされるようになっていました。
その流れの中で、情報の持っている経済的価値が注目されたのです。情報の生産・消費にかかわる生涯学習は、教育の観点からだけでなく、そのような経済的価値の観点からも脚光を浴びたのでした。
私はこの1980年代から続く、経済的価値をもった情報という観点が、著作権の解釈拡大の背景になっているのではないかと感じています。
***
アニメや漫画、J-POPやゲームのキャラクター、それにコスプレまで、日本のポップカルチャーが海外に受け入れられて久しくなります。
かつては、文化というのは西洋からやってくるもので、日本の歌謡曲もアメリカのポップスにいかに近づけるか、という価値観が発展の尺度だった時代もありました。私はまさにそのような文化的土壌の中で育ちました。
しかし今や、文化は足元からも海外に発信されていて、それらは必ずしも西洋の文化の近似性によって海外に受け入れられているわけではないようです。 むしろ、アニメや漫画やゲームのキャラが、海外の若者の間での日本イメージを生産しているようなのです。
日本におけるK-POPや韓流ドラマの流行も同様でしょう。アメリカンポップカルチャーとも差異化されたK-POPのスタイリッシュでセクシーなビジュアルは、若者たちの間ではそれこそが韓国イメージの源です。そのイメージは、私たちが抱いている儒教と朝鮮王朝の伝統に彩られた韓国のイメージとは大きくかけ離れた、新しい韓国イメージなのです。
***
1980年代とは異なり、今では輸出できる日本製品を血眼になって探さなければならない時代です。もちろん内需拡大も重要課題です。
産業の空洞化、経済成長の鈍化、デフレ、労働力不足といった日本を長期にわたって苦しめる経済的な課題は、これまでは売り物としては考えられたいなかったような物に経済的価値を付与しようという勢いが増す状況を作ってきているということです。
そのような中で、音楽ももっと金になるはずだ、と権力者たちが考えるのは当然です。それだけの音楽のコンテンツが発達してきているという状況もあります。
そして、音楽を金にするひとつの方法が著作権の解釈拡大だということになる、というのが私の理解です
***
文化的価値と経済的価値とは、ときどき対立します。文化と捉えるか経済的財と捉えるか、いずれかによって音楽への評価も変わります。
経済的価値の側面からいえば、「崇高な音楽」も売れなければ価値がありません。「下品な文化」でも、売れさえすれば経済的には価値が高いことになります。 ということは、経済的価値が文化的価値を駆逐するということもありえるわけです。
遠い昔、確か小室哲哉だったと思います。「私はどうやったらヒットするか知っている。だから私がプロデュースする曲はヒットする」というようなことを言っていたのを読んだ記憶があります。もちろん音楽家としては尊敬する人でしたが、それを読んだとき、売れっ子のミュージシャンが意図的にヒット曲をつくるという感覚に嫌悪を感じたように覚えています。そんなことをしたら文化的価値が経済的価値に駆逐されてしまう。尊敬を集めるミュージシャンが率先してそのようなことをしてはならない、と感じたのでした。
***
著作権は、音楽の経済的価値とかかわりを深く持つようになってきています。したがって、著作権にかかわる動向に対して、文化的価値の側面から批判的に検討することが求められている、というのが、今日の私の主張です。