「よい音楽」の観念に対する批判
以前の記事で、「音楽の能力は遺伝的に決定される」という科学的知識について、批判的に検討してきました。この知識には、文化的バイアスが強くかかっているのではないか、という批判です。
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例えば、スウェーデンでの研究に次のようなものがあります。
スウェーデン人の双子10500人のうち、片方だけに音楽の練習を受けさせた結果、その練習はたいした意味がなかったという研究です。
この研究では、音楽の能力として、リズム、メロディー、音感(音程の判別)を切り取っています。これらの要素は、文化的に規定された「いい音楽」を創出する能力の要素に過ぎないですよね。
彼ら自身、次のように書いています。“私たちはメロディー、リズム、音程を聴き分ける能力—実際生活での音楽パフォーマンスにとって明らかに中心的な能力を計測した。実際に、音楽家はそれらの能力において非音楽家を凌駕している。しかし、音楽の能力を他の基準で測ったら、結果は異なっただろう(例えば音楽の世界での成功といった基準)。”(Mosing, Madison et al, Practice Does Not Make Perfect: No Causal Effect of Music Practice on Music Ability, Psychological Science, 25(9), 2014, p.1802)
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つまり、「音楽の能力は遺伝的に決定される」という科学的知識の前提には、音楽の能力とは、「正しいメロディー、リズム、音程で演奏することができる能力」だというバイアスがあるということです。
もちろん一般的には、これらの能力があるほうが、音楽愛好家になる機会に恵まれるでしょう。しかし、メロディー、リズム、音程の正しさを追求するような神経症的な音楽観は、かえって音楽の楽しさを損なうことさえあるように思えます。
オンチでもカラオケを楽しめるし、一般的なリズム感に難のある若者も嬉々としてダンスを楽しみます。他方で、絶対音感が音楽生活どころか日常生活の邪魔になるという話を聞いたことがあります。ともかく、科学的知識の前提になっている「音楽の能力」の定義に偏りがあるということは押さえておく必要があることだと思います。
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「音楽の能力は遺伝的に決定される」という科学的知識は、音楽をめぐるハビトゥスの強力な説明要因になります。「よい音楽」を理解することができるかどうかは、他の生得的な能力とも深く関連して、生物学的に決定されているのだとしたら、一定の層の人たちが「よい音楽」の享受を独占することになるのは、当然ということになってしまいます。彼らは、彼らの能力ゆえに、権力や財にアクセスしやすいわけですから、政治的・経済的・文化的な支配階級を構成する可能性が高いと言えるでしょう。
文化的な支配階級が、「よい音楽」とは何たるかを定義する権限をもつのだとしたら、「よい音楽」と階級の再生産は強く結びつくことになるでしょう。つまり、「よい音楽」の観念は、政治的な意味をもつのです。
したがって、「よい音楽」の観念を批判することなく、「音楽の能力は遺伝的に決定される」という科学的知識を受けれるということは、階級支配に根拠を与えることを意味しているということになります。例えば、能力のある人が「よい音楽」を理解できるのだから、優れた遺伝子を持つ彼らが世界を支配するのは当然だ、というように。
高度経済成長期に、日本では「一億総中流」幻想を共有して、文化的支配も多元化しました。多元化は今でも進行していると思いますが、同時に新たな階級社会が立ち現れつつある現在、「よい音楽」の観念には注意を払う必要もあるのではないかと思います。人の感性というのは、案外かんたんに操作されるものです。
音楽は、一方で徹底的に個人化personalizeしていき、他方で文化的な新しい階級支配の象徴になりえる、そういう時代背景のもとで、「音楽の能力は遺伝的に決定される」という科学的知識の意味を批判的に捉えるべきだと思います。