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「よい音楽」の観念から、表現することの価値へ

「音楽の能力は遺伝によって決定される」という科学的知識が、文化的に恣意的な「よい音楽」の観念に依存していること、したがって「よい音楽」の観念を批判的に意識化する必要がある、ということを述べました。 今回はその結論として、すべての人の音楽が平等に扱われる音楽観がめざされるべきだということを述べようと思います。 *** 音楽が、聴く側と演奏する側に分かれる時代から、音楽シーンにすべての人が参加する時代へと移行しつつある、という現状認識が、この考察の出発点にあります。かつては、演奏する人たちは特別な人たちであり、聴衆からは遠い存在でした。「よい音楽」を演奏する能力は、演奏する人たちが独占してよかったし、また独占していると思われていました。しかし現在では、聴く側と演奏する側は、単なるその場での役割分担のようなものという音楽シーンが多くなりました。

歌うことの好きな学生がいて、夕方になるとどこからともなくそいつの歌声が聞こえてきた、という時期がありました。そういえば最近あいつ歌わなくなったなあ。で、カラオケなんかに行くと、そいつの歌がまたものすごく上手いのです。今時のj-popをいつも聴いていて、それを歌うわけですが、たぶんそいつの歌唱力はほとんどの本家本元を凌駕していると思います。 テレビで音楽番組をみていても、「なんでこの人たちが歌手になれたんだろう?」と密かに疑問に思うような人たちが出演しているかと思えば、「この人たち、ほんとに素人なの?」と驚くほど上手な路上ミュージシャンもいます。もう、「よい音楽」を演奏する能力を基準にしたら、訳が分からないという状況です。 こういう状況を述べることで、「よい音楽」を演奏する能力をもつ人たちが、より音楽の世界で活躍できるしくみをつくるべきだ、と主張しようとしているのではありません。そうではなくて、そもそも「よい音楽」という観念が、実質的に無効になってきたということを述べたいのです。

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多くの音楽シーンで大切なのは、「よい音楽」という価値ではなく、音楽表現という価値なのではないでしょうか。表現は、それぞれの人が自由にその人なりにすればよいのです。表現力のある人、ない人、伝わりやすい表現、伝わりにくい表現など、表現にも優劣の基準を付けることは可能です。しかし、個々人にとって表現は、自分なりの取り換えのきかない表現です。そこに優劣はありません。 この観点からすると、歌唱力がべらぼうに高い学生は、歌が上手いから価値があるのではなくて、夕方になるとどこからともなく彼の歌声が聞こえてくるから価値があるのです。あいつ、今日も元気だな、かわいいやつだな、と研究室でパソコンに向かいながら頬を緩める私にとって価値です。

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それは、「よい音楽」からは遠いところにいる人たちの音楽表現の価値と、ちっとも変わらない価値なのだと思います。例えば、障害のある人たちが大喜びでj-popに合わせて歌ったりダンスしたりするという場面に数多く遭遇します。誰かに見てもらうのが嬉しいらしく、歌い手、踊り手はどんどん増えていきます。「よい音楽」の観念に憑りつかれていたら、彼らの音楽表現は価値のないものとして切り捨てられるでしょう。しかし、彼らが歌い踊ることによって、歌い踊っているほうも、それを見ているほうも、ハッピーになれるのです。笑顔にあふれ拍手喝采になります。だから、「よい音楽」の観念から自由になって、彼らの音楽表現を価値づける基準をもつことが必要だと思うのです。 「音楽の能力は遺伝によって決定される」という科学的知識は、彼らの音楽を否定するという意味をもっているように、私には感じられます。「よい音楽」の観念は、不平等な社会と相性が合うし、何よりもおもしろさに欠けると思います。この「おもしろみのなさ」については、また今度、議論したいと思います。

私は、すべての人の音楽が平等に扱われる音楽観を求めたいと思っています。そのためには、「よい音楽」の観念よりも表現することの価値に力点を置いて、音楽について考えることが大切なのだと思います。

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