うまく表現できないからこそ、おもしろい
前回のブログで、表現することの「おもしろみ」について触れました。
今回はその「おもしろみ」とは何かということについて考えたいと思います。 「表現する」とは、内面にあるものを外化することだと説明してきました。その説明は間違いではないはずですが、ほとんど意味のない説明だという気がしてきました。 内面にあるものが、そのまま外に表れるということではないからです。内面にあるものが、異なるものとして外に表れるから、「表現する」という言葉にがあるのだということ。これはここ最近になって強く意識するようになったことです。
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「ことば」について考えても、内面にある思いと「ことば」に乗せて外に出せるものとの間には、大きな違いがあります。「ことば」で表現できないことは、もどかしいことです。
例えば、激しく湧き上がる感情を表現できる「ことば」が見当たらないことなど、誰でも体験することだろうと思います。だから、激しい怒りを「殺すぞ!」などと表現する人が出てきます。「ことば」で外化できないから、本当に行動に出てしまう人がいたりもします。
「ことば」は、一面ではもどかしいものですが、同時に内面を正確に映し出すことができないからこそおもしろいものでもあります。何とか内面を正確に外化しようと、人々はがんばって「ことば」の世界を豊かにしてきたからです。それが「ことば」の文化なのです。
「ことば」は、内面を外化するための道具でもあると同時に、内面とはかかわりのない音の組み合わせでもあります。だから、音の組み合わせのおもしろさ、という側面も「ことば」の文化に入ってきます。そしてたぶん、この音の組み合わせのおもしろさとしての「ことば」の文化は、私たちの内面に大きな影響を与えています。
短歌や俳句、詩、小説、落語、朗読、語り、演劇……、どれも、内面を必死に外化しようとした結果として生まれてきた「ことば」の文化であり、また音の組み合わせのおもしろさに憑りつかれた文化でもあるのです。
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同僚に鉄を素材にする彫刻家がいます。食堂でたまたまご一緒したときに、なぜ鉄なんていうたいへんなものを素材に使っているのか、という質問をしました。そうしたら彼は、「抵抗感」という言葉で説明をしてくれました。素材にはそれぞれ固有の「抵抗感」があって、作家によって表現しやすい「抵抗感」があるのだ、と。つまり彼にとって鉄は、表現しやすい「抵抗感」をもった素材なのだということです。(私の解釈や言葉の使い方が多分に含まれているので、彼の言いたかったことそのものではないことをご了承ください。)
また、先日仕事をご一緒した絵描きの同僚は、「私は絵が下手なんです」という学生に食い下がって、ざっと次のようなことを語ってくれました。(これも彼女の言いたいことを正確に書き起こせていないかもしれません。私の意味解釈が多分にはいっていることをご了承ください。)
「作家はイメージしたものをそのまま平面なり立体に落とそうとします。だけど、普通、イメージしたものと出てきたものとの間には違いがあります。作家は何とかイメージしたものに近づこうと努力します。しかし、イメージ通りのものが形になったら作家は嬉しいでしょうけど、イメージしたもの自体が正しいのかどうか分かりません。イメージをそのまま形にすることにどれだけ意味があるのか分かりません。ピカソはイメージどおりに絵を描ける人だったので、晩年になるまでイメージ通りに描かないようにするという苦闘を繰り返したそうです。イメージしたものと形になったものとの間の違いがあるから、表現の豊かさが生み出されていくんです。」
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「ことば」を操る人も、芸術を生業とする人も、内面にあるものをいかに外化するか、という格闘をしていると同時に、その格闘から生み出されるおもしろさにのめり込んでいるのではないでしょうか。
「表現する」というのは、内面を外化する困難によって生じる、表現主体と表現媒体あるいは道具との相互作用なのです。
それは音楽についても言えることです。
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私の音楽表現の道具であるサックスには、リードと呼ばれる繊細なパーツがあります。この部分が振動することで音が出るわけですから、音づくりの肝です。
私のリードとの格闘は、中学校でクラリネットを吹いていたときから始まりました。薄いリードを使うと、簡単に音が出ますが、ペラペラな音が出ます。厚いリードを使うと太い音が出ますが、自由に音を操作できません。たぶん一番音楽にのめり込むことが許されていた中学生のころは、厚めのリードを買ってきて、紙やすりでちょうどいい厚さになるまで削って使っていました。しかも、操作性と音の厚さとのバランスがよくなる削り方があるのです。真ん中はできるだけ削らない方がいいとか。
最近は、時間がないけど、中学生の頃よりはお金で解決できるようになったので、リードとマウスピースの相性を金で買うということができるようになりました。ずーっと使ってきた初心者用のマウスピースを、先日20000円以上もする小さな塊に代えました。それだけのことで、私にとっての「抵抗感」の位相が革命的に変わりました。私にとって人知れぬ大きな発見と喜びでした。
リードとの格闘は、まさに私にとってちょうどいい「抵抗感」を探す格闘だったわけです。私がちょうどいいと思う「抵抗感」は、たぶん中学のクラリネット時代から、サックスを吹く今に至るまでほとんど変わっていないと思います。私の場合、少し抵抗が強めのほうが、操作性と音の厚さのバランスがとれます。どのくらいの厚さの音を「いい音」と感じるか、ということも重要な「表現」の要素です。
サックスによる私の表現の土台には、リードとの格闘の歴史があるわけです。
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ジャズのアドリブには、「表現する」ことのおもしろさが凝縮されています。
「こんな演奏をしたい」というイメージは、多様にありえるし、しかも正解はありません。チャーリー・パーカーとかコルトレーンのように演奏したいという人がいてもいいし、誰の真似でもない自分なりの音楽を創りたいという人がいてもいいわけです。ちなみに私の場合、完全に後者です。
私の場合、「こんな演奏したい」という思いが実現したためしなどありません。練習していないこととか、そもそも下手くそだということが最大要因ではありますが、練習しても、上手になっても、たぶん実現しないのではないかな、という感覚はあります。
それはもちろんもどかしいことではありますが、同時におもしろさの原点でもあります。思い通り演奏できるなどという状態を想像してみるだけで、思うようにいかないことがおもしろさの原点であることは容易にわかります。おそらく、思い通りに演奏できたら、サックス演奏なんて途端につまらないことになってしまうはずです。
「抵抗感」とアドリブのおもしろさとの関係について、また別の機会に改めて考えたいと思います。 たぶん意識されたコントロールとは異なる次元での行為、身体の自律性のような話になっていくのではないかと思います。
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そうだ、でもその前に、著作権の話を書きたいのでした。